「暑い」


 仁王雅治は一言、静かに一人、口にした。


 嫌でもよみがえる学生時代の記憶。何度も払拭しようとした。ないものにしようとした。しかし、彼の頭からは決して忘れる事の出来なかった、あの夏。


 ジメジメとした梅雨もとっくの昔に過ぎ去り、夏が訪れると暑さは一層に勢いを増した。都会だというのに、相も変わらず蝉の鳴き声も五月蝿くて鬱陶しく感じるし、アスファルトの地面からは火傷するような熱気がゆらゆらと揺らめき、その熱気で思わず仁王はふらつきそうになる。伝う汗を拭いながら、彼は人混みの中へと姿を消した。


 そういえばあの夏も、今年みたいな酷い猛暑だった。仁王雅治はふと思い出す。





 仁王は夏期休暇を使って一人旅に出た。行き先は、新幹線で新横浜から約三時間かかる場所にある、とある避暑地。ただ、この都会のうだるような猛暑から逃げ出したかった。言うならば逃避行。彼にとっての理由は、ただただ、それだけだった。


 新幹線から在来線へと乗り継ぎ、田舎独特の鈍行列車に四十分ほど揺られると、漸く目的地へと辿り着いた。そこはICカードが使えない、自動改札機すら無い、無人駅。切符を指定の箱の中に入れ、仁王は改札を出た。


「暑い」


 改札を出た途端、思わず仁王の口から零れた言葉は、全くその通りのものだった。避暑地で有名な場所だというのに、全然涼しくないどころか、寧ろいつも暮らしている都会と殆んど暑さが変わらなかったのだから。予想外の暑さに仁王は驚き、そして肩を落とした。


(避暑地と謳っておきながらこんなに暑いとは。計算違いじゃ。)


 しいて都会と違うところを挙げるとすれば、決して道幅の広くないアスファルト道路の脇に、未だ舗装されていないけもの道が続いているくらいだろうか。その、何処まで続いているか全く予想のつかないけもの道は、珍しく仁王にとって好奇心を煽るものだった。予約している宿のチェックインまで時間に余裕があったという事もあり、仁王は興味本位であったが、その道の先を進んでみようと決めた。


 そうやって一歩足を踏み入れたまさにその瞬間、後方から声をかけられた。


「危ないよ、その道」


 声がした方へ振り返ると、そこには一人の少女が佇んでいた。外見からして中学生くらいか。仁王は憶測する。
 “中学生”。その、自分が心の中で言い放った一言が、何故だか胸にずっしりと重たく圧し掛かった。『彼女』と初めて出会ったのも、この少女と同じくらいの年齢の頃だったと思い出す。


「なんか出るん? 此処」
「うん。いっぱい出るよ」
「タヌキとか?」
「お化け」
「・・・は?」


 この少女が一体何を言っているか仁王には理解し難かった。幽霊が出るなんて馬鹿げている。だって仁王が幽霊の存在を信じた事は、今まで一度もなかったのだから。


「あのな、お嬢さん」
「なに」
「お化けっていうのは、ただの錯覚に過ぎん。気の所為じゃ」
「でも私、見た事あるもん。今だって、ほら」
「だからそれは気の所為やって言っとるじゃ・・・」


 仁王が話している最中、少女が不意に指をさした。その方向に仁王は振り向くと、思いもしない光景が目に映った。思わず目を疑った。少女が指をさした先には、けもの道の更に奥にある、古い古い神社。そこに、“居た”のだ。


(嘘じゃろ・・・。)


 思わず言葉が途切れた。
 そして少女に視線を移すと、何故か少女は満足気に微笑を浮かべていた。
 

「この町、こういうの沢山出るから。気をつけてね」
「あ、ああ・・・。教えてくれてありがとさん」


 「じゃあ、さようなら」そう言って少女は、駆け足で仁王の元から姿を消した。


 一体何だったのだろう。あれは本物だったのか。ただ、少女の空気に飲み込まれて幻覚を見てしまっただけなのか。突然現れ、そして一瞬にして消えたあの“物体”は、果たして・・・。


 気を紛らわせようと、仁王は少し早めだが、宿にチェックインする事にした。地面に置いていたボストンバッグを肩に掛け、スマートフォンの地図アプリを使って宿を探す。すると、あの場所から徒歩十分程のところに予約していた宿が見つかった。
 相変わらず、外は暑い。キャップを被っていたものの、あまり意味がなかったようだ。地面からメラメラと燃え上がるような熱気は、どうやら田舎でも健在らしい。


 宿に到着し、フロントでチェックインを済ませると、三階にある部屋へと向かった。外観は少し年季が入っているみたいだったが、内観や部屋は最近リフォームしたばかりなのだろうか。思っていたよりも綺麗で清潔感があった。


 「ふう・・・」
 やっと体を休める事が出来た仁王は、思わず小さく息を吐いた。一息ついたら何処かへ観光しようかと思ったものの、どうも頑なに体がそれを許してくれない。先程の光景が、仁王にとって少し精神的にきたようだった。今日はもうこのまま夕食も取らずに眠ってしまおう。そう決めた仁王は、シャワーを浴びた後、すぐにベッドの中へ潜り、眠りに就いた。




 .
 .
 .




 その夜、彼は不思議な夢を見た。


 とある少女が仁王の前に出てくると、一言、彼にこう問うた。


   仁王は恋をしたことないの?


 その少女は中学生くらいの風貌で、何処となく懐かしい匂いがした。だが、仁王はどうしても彼女の名前を思い出せなかった。いや、思い出したくなかった、と言った方が相応しいのかもしれない。喉から出てこようとするその名前を、仁王は必死に喉の奥へとしまい込んだ。


   ねえ、仁王。
   なんじゃ。
   あのね、私ね。




 三年前まで、仁王雅治は恋愛というものに殆んど興味が湧かなかった。あの出来事がなければ、きっと今も、仁王の気持ちは昔のままだっただろう。ちょうど三年前、彼女と共に過ごした、毎日うだるような暑さの、夏の日々。仁王にとって決して忘れる事のない、思い出の数々。しかし、もう二度と戻ってくる事のない、あの夏。




 夢の続きに戻るとしよう。
 先程まで中学生くらいの風貌だった少女は、いつの間にか大人に成長していた。その上、夏仕様の半袖の制服から、真冬に着るような暖かそうな服装に変わっていた。どうも見覚えがある。そして彼女は一言、にっこりと口元を上げてこう口にした。




   仁王が幸せなら、私も幸せだから。




 ハッとして、仁王は思わず夢から覚めた。
 冷房がきつく効いているというのに、仁王は寝汗をかいていた。額の汗を拭えば一人、真っ暗な夜空を窓越しに見遣る。田舎だからだろう。見上げると、満点の星空が目一杯に広がっていた。普段見慣れないその景色に、ただただ見惚れる。


「何であの時、言えんかったんじゃろうな」






 仁王雅治は恋というものを一切知らずに約二十年間生きてきた。しかし、その”恋”を教えてくれたのは、他でもない、彼女だった。時には明るく、時には厳しく、そしてあたたかくもあり優しい。そんな彼女は、仁王にとって忘れられない女だった。


 後悔してもしきれない、あの凍えるような寒い真冬の夜中。午前二時を告げる観覧車の煌めきの向こう側。涙声で、彼女は言った。“いいの。貴女が幸せなら。”と。仁王は何も言葉を返せなかった。ただただ、二人して車内で静かに泣いた。好きだった。誰よりも。だが、その気持ちに気付くのが遅くて、途方に暮れるしかなかった。


「すまん。


 この満天の星空をいつか二人で見られたなら、どれほど幸せな事だろうか。








夏の独白
(2014/10/07)

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