忘れられない女がいる。 彼女はまるで、解かれたリボンのように容易く、するりと僕の元から離れていった。高校時代の話だ。 洛山高校に入学した当初、数多くの生徒たちに埋もれていたため、という人間の存在は知らなかった。別のクラスであったし、部活も違う。共通点など、全くもって何も無い。 しかし、いつだっただろう。漸く彼女と出会う機会が訪れた。休み時間、僕が廊下を歩いている時、その女は現れた。日直だったのだろう。彼女はノートの山を両手で抱えながら、僕たち二人はすれ違った。いつもの如く、通り過ぎようとした。しかし、何処となく心がざわついたのは気の所為だったのだろうか。だが、確かに頭の中にいるもう一人の“誰か”に言われた。『彼女に接触せよ』と。 僕は動いた。 「キミ、ノート重たそうだね。半分持ってあげようか」 「え、いいんですか?」 「ああ。お安い御用だよ」 「えっと、ありがとうございます」 彼女の容姿はごく普通だった。化粧っ気もないし、どちらかといえば大人しそうな女子だった。何故そこで僕は彼女に興味を持ったのかは、今でも分からない。もう一人の“誰か”に訊いてみないと、分からないだろう。 ノートを職員室まで運んでいる途中、この女子の名前を知りたくて、僕は彼女に問うた。 「ところでキミ、名前は?」 「です。」 「僕は赤司征十郎」 「貴方のことはよく知ってます。一年にしてバスケ部レギュラーですよね」 「ああ、そうだね」 「うちの高校、バスケ強いですもんね。頑張ってください。応援しています」 「ありがとう。その気持ち、胸にしまっておくよ」 「はは、なんだか嬉しいな」 そうやって談笑しているうちに、目的地の職員室へと辿り着いた。名残惜しくもあり、貴重な時間が、もう時期終わる。 「じゃあ、僕はこれで失礼するよ」 「本当にありがとうございました。すごく助かりました」 「何てことないよ。また困った事があったらいつでも言うといい」 「・・・はい!」 これが、とのファーストコンタクトだった。 それからというもの、とは廊下ですれ違う度におはよう、なんていう軽い挨拶をしたり、距離は僅かであるが縮んでいった。かと言って彼女に対して恋心が芽生えるワケなんて勿論なかったし、当時の僕にとっての一番はバスケだったから、そんな恋愛もどきに付き合っていられる暇などなかった。 と出会った半年後、彼女に告白された。「初めて会った時から好きでした。付き合ってください」という、テンプレートそのものの内容だった。 . . . 「赤司。ぼうっとしているが、どうしたのだよ」 「いや、少し昔を思い出してね」 「お前が過去に思い耽るなんて珍しい」 「たまにはいいじゃないか」 「それもそうだが」 「しかし、お前が俺をこんな場所へ呼ぶとは意外なのだよ」 「そうかい?」 「ああ。全くだ」 真太郎にそう言われてもおかしくないだろう。今、僕たちが居るのは銀座にある某高級クラブ。着物を纏い、凛とした出で立ちのクラブの長が、僕たちのテーブルで上品な笑みを浮かべながら談笑している。そして、色鮮やかなドレスを着た、二十代の女性が僕たちの脇を固めて座り、ウイスキーを注いでいるのだ。 「こういう場所に来るのは初めてではないだろう」 「そうだが。お前とこんな店で飲むのは性に合わん」 「そう言わずに。気晴らしにと思えばいい」 「・・・今日だけは特別なのだよ」 「赤司さん。ウイスキーのボトルが無くなりましたが、如何なさいますか」隣に座っている女性(確か名前は『アカネ』と言った)が僕に問うた。 「じゃあ、追加で注文しようかな。同じものを頼むよ」 「ありがとうございます。では、すぐに持ってまいりますね」 ボトルがやって来るのを待っている間、「征十郎さん。お仕事のほうは順調?」と、クラブの長に訊かれたので、「ああ。何も問題ないさ。順調だよ」「それは良かったわ」なんて、気軽なトークを交わしていた。そうやって談笑を続けていると、「そうだ」と思い付いたようにクラブの長は言葉を吐いた。 「今週から入った新しい子がいるのよ。良かったら彼女の相手をしてくれないかしら」 「勿論。構いませんよ」 「さすが征十郎さん。ありがたいわ。じゃあ、その子にボトルを持って来させますね」 「よろしくお願いします」 グラスに僅かながら残っていたウイスキーを、一口ほど喉に入れる。氷がウイスキーの液体に少しだけ溶けて、カラン、と音が鳴った。新人か。どうせ金が目当てでこの世界に飛び込んできた女なのだろう。そう思っている中、いつの間にか僕の前にひとつの影が現れた。僕はウイスキーグラスをテーブルにことりと置いた。来たか。目を閉じて、新人のホステスが挨拶するのを待った。 「初めまして。と申します」 その名前を聞いた途端、耳を疑った。と同時に、僕は影が出来た方を即座に見上げる。まるで一度も染めた事のないような艶やかな黒髪に、それと対比する白い肌。大きな瞳が昔から特徴的だった。そう、僕の目の前に現れたのは、紛れもない、あの“”だったのだから。一人動揺を隠せないでいるまま、彼女は僕と反対側の席である、真太郎の隣に座った。 「お名刺を頂戴してもよろしいでしょうか」 「あ、ああ。構わないのだよ」 どうやら真太郎は、彼女の美しさに驚いて戸惑っているように見えた。僕たちは名刺入れから自分の名刺を取り出すと、各々彼女に手渡した。 「赤司様と緑間様ですね。改めまして、本日はよろしくお願い致します」 何が『初めまして』だ。しらばっくれるな。 彼女が席に着いてから、真太郎は緊張しつつもの相手をした。僕はその様子を隣で眺める。「今日はいつも以上に緊張しています」なんて言いながらも、彼女の尽きないトーク力などに、昔はこんなに喋る女だっただろうかと、ただただ驚かされた。 「緑間様はお医者様をされているんですね」 「ああ。一応・・・」 「ふふ。そんなに強張らなくても。私の方がよっぽど緊張しているのに」 やわらかな笑顔を添えて、はそっと真太郎の太ももに手を置いた。いつになく、真太郎の顔が赤らんでいるように思えるのは、酒の所為だけではないだろう。あまりにも慣れている。この女は、きっと前職もこの世界の人間だったのだろう。僕の知っている大人しそうなという女は、もう、此処には存在しない。 「少し手洗いに行ってくるのだよ」 「はい。行ってらっしゃいませ」 手を振りながら、笑顔を保ったまま、は真太郎を見送った。 真太郎が手洗いに行っている間、僕との二人だけが残った。その間、彼女はグラスについた水滴を拭いたり、氷を足したりと、まるで僕の方を一切見ない。かと言ってこちらから話すのも気が引ける。賑やかな空間な筈なのに、僕らの周りだけは、沈黙だらけだ。 ぼんやりと彼女の動作を一人眺めながら、僕は約十年前の出来事を思い返す。 . . . 「キミは、僕の事が好きなのかい?」 「うん・・・」 「そう。でも、申し訳ないが僕はキミの事を恋愛対象とは見ていない」 「そう、なんだ」 「今まで気を持たせるような態度を取って悪かったよ。以後気をつける」 「でも」 「なんだい」 「でも・・・。いつか私、赤司くんを振り向かせるから」 「え?」 「・・・ていうのは冗談。私の気持ち、聞いてくれてありがとう」 そう言って、彼女はいつものように微かに笑って僕の前から居なくなった。 その後すぐに、は転校したと風の噂で聞いた。 彼女は、僕にはそんな事など一言も伝えず、忽然と姿を消したのだった。 . . . そして、今宵の再会だ。 そろそろ真太郎が手洗いから戻ってくる頃合いだろうか。早く戻ってきて彼女の相手をして欲しい。そんな事を思っている最中、徐にの顔が僕に近付けば、僕の耳元で、初めて聞いた甘ったるい声で、確かにこう囁いた。彼女が出した生温かい吐息が、僕の本能を疼かせる。 「探したよ。赤司くん」 高校時代の彼女には似つかない、妖艶な、そして狐のような狡賢い眼つきをしたが、そこには居た。その表情を保ったまま、今まで見た事のない笑顔を僕だけに振り撒いた。思わず身震いがした。 この世の中は誰が“悪”で誰が“そうでない”か、まるで分からない。全くもって奇妙な世界だ。 キミに溺れて欲しくて (2014/09/10) 企画サイト『Alcolici』様に提出作品(テーマ:狂おしい×お酒) |