さん、と私の名前を呼ぶ声がとびきりに懐かしかった。それはすぐにでもタイムマシンに乗って、一瞬にして中学時代に舞い戻ってしまうかのように、心があたたかくなっていく。その声をずっと求めていた。そう、あの時から。私の十代の青春には欠かせなかった、大切な人。


「まさかこないな所で会うとはなあ」
「まさか東京で会っちゃうとはねえ」


 本当に、『まさか』だった。





 仕事が休みのとある土曜日、私は東京二十三区内の某所をぶらぶらと歩いていた。その日の朝、窓越しから見えた空は快晴で、ペンキで塗ったような青空が延々と広がっていた。その空を見た途端、特に用事は無かったものの、何となく外出をしたくてうずうずとした私は、昼過ぎに家を飛び出した。


 若者の街にも繰り出した。少し上品な街にも繰り出した。誰もが知っているブランド店がひしめく街にも行ってみた。そして、昼の三時になると、お洒落な街に足を運んで、一人カフェを楽しんだ。ボサノヴァをBGMにしながら一人で飲むカフェラテは、案外悪くはなかった。自然と心が落ち着き、この空間だけがひとつの世界のように感じて、不思議な感覚に陥った。


 窓側に座っていた私は、外の景色をぼんやりと眺める。行き交う人々は皆、都会の洗練された身なりをしていた。上京して早数年。私も彼らのようにこの都会の色に染まっているのだろうかと不意に思った。と、外を何となしに見ていたそんな時だった。道を歩いている、とある男性に何故だか直ぐに、一直線に目がいった。
 色素が薄くて、少しだけ外にハネた髪。あらゆる女子が振り向くような外見に、誰もがときめくような理想の身長。細身の体。容易く分かった。その男性が“あの彼”だという事を。


 私は慌てて残りのカフェラテを飲み干し、レジで会計を済ませると、すぐさま店を出た。“あの彼”を見失わないように。人混みをかき分け、彼に近付く。そしてあと一メートルという距離まで近付くと、私は後ろから彼の名前を呼んだ。声が自分でも上擦ってしまったのが、嫌でも分かった。


「白石くん!」


 あ。振り返った。
 彼はこちらに振り向くと、一瞬だけ間を空ければ、思い出したかのように「えっ・・・。さん!?」と、驚いた表情を見せて私の名を呼んだ。その声が心底懐かしくって、周りの景色が一気に色彩を纏っていく。まるで夢のようだった。


「ホンマにさん、やん・・・な?」
「本物ですよ。あのですよ」
「いやあ、なんていうか。偶然やなあ」
「うん。そこのカフェで一息ついてたら白石くんを見つけて。ダッシュで追いかけてきちゃった」
「ははっ。相変わらず行動的なのは健在やねんな」
「おかげさまで」


 ふふ、と私は小さく笑う。正直、嬉しくて浮ついていた。十年前、一緒に青春を共にした白石くんが目の前に居るなんて。夢かと思った。幻かと思った。しかし今は、間違いなく現実だ。頬っぺたをつねってみても、目の前には白石くんが居るのだから。そんな私の行動を見て、「相変わらずさんはおもろいな」なんて、褒められてしまった。私にとって、『面白い』と言われるのは、褒め言葉なのだ。そんなどうでもいい事を考えていると、白石くんが先に口を切った。


「せっかく偶然再会したんやし、どっか晩飯一緒に食べへん?」
「私も思ってたところ。いいね」
「近くにいい店探してん。そこでもかまん?」
「もちろん!」


 「ほな、行こか」と言われると、二人横に並んで歩いていく。本当に、夢のようだった。でも、これは先程白石くんに言われた通り、現実だ。嬉しくて幸せで、自然と頬が緩んでしまうのを必死で堪えながら、私は一歩先を歩く白石くんに着いて行った。
 連れられた先は、白石くんにお似合いなお洒落なダイニングバーだった。


「わあ。素敵なお店」
「せやろ? 最近見つけて、ええなって思っててん」
「でも。なんていうか、私には勿体無いよ」
「んなことあらへんて。さんにお似合いやなあって思て此処にしたんや」
「あ、ありがとう」


 女子を惚れさせる言葉をしれっと言ってしまうのは天然というか相変わらずだな、なんて思いながら、私たちはダイニングバーの入口を開けた。
 店内に入った途端、外の雰囲気とはまた違った感じを醸し出していた。店の規模は比較的小さいが、ひとつひとつの小物や雑貨に凝っているようで、見た事のない小洒落た物があって、そして何よりも、間接照明の光り加減がとびきり絶妙的だった。この何とも言えない雰囲気は、どの男に連れられて来ても九割は惚れてしまうな、と思う程であった。


 テーブルに着くと、店員がメニュー表を持ってやって来た。「ドリンクはお決まりですか?」と聞かれ、白石くんが私に「さん何飲む?」と聞かれたので、この洒落た雰囲気に流されて「ワインがいいかな。えーと、赤で」と答えてしまった。本来ならば男性である白石くんに合わせなければいけないと思っていたので、答えた後に、まずい、と冷や汗をかきそうになった。しかし当の本人の白石くんは「俺もワイン好きやねん。じゃあ赤、せっかくやしボトルで頼む?」と、言ってきたのでうんうんと強く頷き、そのあと思わず胸を撫で下ろした。そうだった。白石くんはどんな人にも合わせられる器用な人だったんだ、と今更ながら思い返す。


 暫くして先程の店員がワインボトルを持って来た。今まさに注がれようとしている赤ワインは、間接照明の灯りと相まって、まるで本物のルビーの宝石のように煌めいており、且つ官能的な色を纏っていた。そうやって、うっとりするようなワインの液体に見惚れていると、白石くんが「食べ物何にする?」と訊いてきたので、すぐに我に返った。


「えっと、何にしようかな。多くて迷っちゃうね」
「せやなあ。あ、でも赤ワインやから取り敢えずチーズと生ハム、あとタパス盛り合わせも頼む?」
「そうだね。もしお腹空いてきたらまた少しずつ頼もうか」
「せやな」


 店員にそれらを注文すると、「かしこまりました」と笑顔を残してキッチンへと戻って行った。店員は、感じの良さそうな、私たちより少し年上そうな二十代後半くらいの男性だった。


「それじゃあ、乾杯でもしよか」
「うん」
「じゃあ、さんとの再会に」
「白石くんとの再会に」
「「乾杯」」


 チン、と小さくグラスの音を立てて私たちは乾杯をした。そしてワイングラスを傾け一口、赤ワインを舌に滑らせてから喉に通す。とても芳醇で、独特の渋味と後からやって来るフルーティーな味が最高だった。不意に私たちは目を合わせると、「ここ、正解やな」と白石くんが口にした。つられて私も、再び深く頷いた。


「しかし」
「『しかし』?」


「まさかこないな所で会うとはなあ」
「まさか東京で会っちゃうとはねえ」


 白石くんは大学時代、大阪にある学校に通っていたので、高校卒業とともに上京した私とは疎遠になっていた。成人式に一度久しぶりに再会してから今までは、おそらく全く会っていなかったと思う。それ程までに疎遠になっていた私たちがこんな大都会東京の、しかもとある限られた場所で出会ってしまうなんて、偶然以外何物でもなかった。私が今日あのカフェを飛び出て白石くんを見つけられなかったら未来は変わっていたのだろうか。いい方向に?それとも悪い方向に?でも、今はそんな“もしも”の事を考えられる程、余裕がなかった。だって目の前にはあの白石くんが居るのだから。


さん。仕事はどう? もう落ち着いた?」
「うん。一年目の時よりかは慣れたかな」
「そうかそうかー。しかし、元気そうで何よりやわ」
「それはお互い様だよ」
「せやな」


 そうしているうちにチーズと生ハム、そしてタパス盛り合わせが運ばれてきた。どうやら一緒に持って来てくれたバゲットはサービスのようだ。二人でいただきます、と言って私はチーズ、白石くんはタパス盛り合わせにあったオリーブを口に含んだ。


「んんーっ、エクスタシーな味や!」
「白石くん、その言葉まだ使ってるの?」


 少しお酒が入って上機嫌になった私は、グラスを片手に持ちつつ笑いながら白石くんに訊ねると「せやで。もう包帯も取ってもうたから、これしか取り柄ないねん」と大真面目に言ってきたので、何だか可笑しくって私はケラケラと先程よりもやや大きな声を出して笑った。「そんなことないよー」今宵は良い夜になりそうである。
 「あ、そういえば」思い出したように私が口を開けば、「そういえば?」と、白石くんが興味津々な表情を浮かべて身を乗り出して訊き返した。


「東京で就職したって噂には聞いてたけど、本当だったんだね」
「・・・まあ、色々ありましてん」
「なに、色々? すっごく聞きたい」
「ほんまに?」
「うん。とっても」


 「せやなあ。さんには特別やで?」“特別”という言葉に弱い私は、私たち二人の間に、『可能性』というものが存在しているのでないかと、この時ふと考えた。早く言えば、私は白石くんに対して期待し始めたのだ。しかしこの後、その期待が後悔に変わるなんて、その時は全く思いもしなかった。


「早く言えば、大学時代ずっとに尊敬してた教授が東京の大学病院に移ったからやねん」
「それってつまり?」
「なんやろな。つまり、えーと。お恥ずかしながら“コネ”ですねん」


 たった今飲んでいたワインを噴き出しそうになった・・・まではいかないが、一口含む程度飲む筈だったワインをごくりと一気に飲んでしまったくらいだった。白石くんがコネで入社するなんて思っていなかったからだ。予想外も甚だしい。でも、しっくり来なかった私はもう一度白石くんに訊ねる。


「でも。白石くんほどの人間だったらコネじゃなくても入社できるじゃん」
「せやなあ。コネってまではいかへんのかな。なんて言えばええんやろ。教授の推薦? 紹介?」
「・・・で、うまく転がって今に至る、と」
「そうです。その通りです」
「まあ、薬学部ってそんなもんだよね。私も詳しくは分かんないけど。多分」
「そうかもな。俺の周りも大学からの推薦で内定貰ってる奴が殆んどやったわ」
「そうなんだ。薬剤師は大変?」
「せやな。薬の種類覚えたり、調合したりと色々しとる。まあボチボチやな」
「そっかー。東京生活は慣れた?」
「まだ慣れへん。満員電車とか特に」
「ああ。私も最初そうだったよ。大阪と東京って全然違うんだね」


 酔いは回り、頭が鈍足回転になりかけていた時だった。不意に白石くんが「あ、そうそう」と言葉を発した。


「実はあと一つ、東京に来た理由があんねん」
「なに? もう一つの理由って」
「聞きたい?」
「聞きたい!」


 そろそろワインボトルの底が見えてきた時の事である。私も酔っ払って気分が昂っていたし、白石くんもいつもに増して饒舌だ。もう一つの理由が知りたく、勢い余って、目を輝かせながらテーブルに身を乗り出した。『期待』していた。
 “もしかしたら”という、淡い期待を抱きながら神様にお願いをした。それよりも、心の中で僅かに自信があったのだ。正直、自分自身驕っていたのもある。しかしその自信も、思い上がった気持ちも、次に白石くんが口にした一言で、易々と打ち砕かれる事となった。


「彼女を追いかけて、上京してん」


 今まで積み上げてきた“期待”が、木っ端微塵に砕かれた瞬間だった。


「二年くらい遠距離やってんけど、やっぱりいつでも会いたいやん?」
「うん・・・そうだね」
「で、俺が押し掛けたんや」
「・・・なんていうか、白石くん。一途だね」
「せやろか。ま、そう言われると否定はできへんかな」


 ははっと小さく笑いながら、照れて恥ずかしそうに言う白石くんが、何故だか愛おしく感じた。私のモノでも何でもないのに。何でこんなに愛おしく思うのだろうと、不思議で堪らなかった。
 十年前、確かに私と白石くんは共に二人で青春時代を駆けていっていた仲だった。その青春の余韻に浸り、取り残されていたのは、どうやら私だけだったようだ。白石くんは確実に前を向いて進んでいる。新しい彼女だって作っている。私だけ、当時の思い出に耽りながら、時が止まったままの十代の小娘に過ぎなかったのだ。情けないにも程がある。


 私は無理やり笑顔を作ってこう問うた。顔は引き攣っていないだろうか。私は今、ちゃんと笑っているのだろうか。不安を残しながらも、私はゆっくりと口を開ける。出来るならば、今にもこの場から逃げ去ってしまいたかった。




「ねえ。もっと聞かせて? 彼女さんのこと」




 「まだまだ夜はこれからなんだし」笑いながら、自分で言ったくせに、何故だか無性に泣きたくなった。でも、何が何でも泣くまいと、たった今、誓ってみせよう。


 どうやら、私が思っていた以上に夜は、とても長くて、深いようだ。








夜がこんなに深いとは
(2014/05/22)


title by as far as I know
主催企画「bitter」に提出

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