嶺二の機嫌が悪い時は、決まっていつも私を呼び出す。 『もしもしちゃん? あのね、今日さ。ぼくの家に来ない?』 「別に何も用事はないけど・・・」 『オッケー決まり! じゃあ、今から来てね。待ってるよん』 「えっ。今からって、今すぐ? ちょっと待ってよ嶺二」 「ねえ、嶺二」そうやって私が言葉を全て言い切る前に、嶺二は勝手に通話を終了させた。丁度仕事を終え、帰宅しようと電車に乗った矢先の出来事だった。 私と嶺二の家は、正反対の方向にある。その為、次の駅で下車し、向かいの××行きの電車に乗車しなくてはならない。たった一駅だけ、と他人は軽々しく言うだろうが、私にとっては大ごとだ。だってこれは一分一秒を争う試練なのだから。そんな事を考えていると、電車が次の駅に到着した。私は慌てて下車すると、プラットホームで××行きの電車を待った。 しかし、いつもはすぐにやって来るはずの対向電車がなかなか来ない。どうしたんだろうと不安げに思っていると、徐に駅員のアナウンスがホーム全体に響いた。 こんな急いでいる時に限って、嘘でしょう。冗談だと言って欲しかった。そうしているうちに、駅のホームには段々と人が溢れ返ってきた。東京の中でも一、二を争う程の主要駅なだけあり、それに比例して乗客も多い。ホームの長い行列に並びながら、私は腕を組んで遅れている電車を待ち続けた。 ふと腕時計を見てみると、時刻は夜の九時過ぎを示していた。かれこれ待ち続けて四十分程になる。流石の私も苛立ってきた。 もう、仕方なくタクシーでも呼んで嶺二の家に向かおうか。そちらの方が賢明だ。そう思ったところに、漸く電車がやって来た。はあ、と安堵の気持ちと疲れから思わず溜息が漏れる。そうして私は嶺二が住んでいるマンションへと急いで向かって行った。 ◇ 「ごめん、嶺二。人身事故で電車が暫く動かなくて」 「そうなんだ。ふーん」 「もしかして・・・怒ってる?」 「何でぼくが怒らなくちゃいけないの。ちゃんってば気にしすぎ〜」 嶺二の機嫌を窺う私とは裏腹に、へらへらと笑いながら、彼は飲んでいたビールを再び喉へと流し込んだ。程無くして缶ビールの中身が空になると、「ちゃんもビール飲むよね。冷蔵庫にあるからぼくの分も一緒に取ってきてくれない?」と言われたので、私はキッチンへと足を運び、冷蔵庫の中から缶ビールを二本、取り出した。 リビングへ戻ると、嶺二はテレビの電源をオンにしていた。リビングの角に置かれた間接照明だけの灯りを頼りにしていた薄暗かった部屋が、テレビの光で、僅かではあるが明るくなった。テレビに視線を移せば、画面にはバラエティ番組が流れており、お笑い芸人や芸能人たちが雛壇に座って、ゲストや司会者のトークを聞いては、ゲラゲラと大袈裟に笑っていた。 そんな時だった。私が缶ビールを渡そうと彼のほうへと近寄れば、徐に嶺二が私の名を呼んだ。 「ねえ、ちゃん」 「ん?」 「ぼくちん、アイドル辞めちゃおっかな〜」 「急にどうしたの。何かあった?」 「なんちって。言ってみたかっただけだよーん」 「もう。びっくりさせないでよ」 持っていた缶ビールが私の手から離れると、嶺二はプルタブを慣れた手つきで器用に片手で開けた。そして、ごくごくと美味そうに喉を鳴らしながら二口、三口ほど一気に飲むと、ぷはあ、と息を吐いた。不意にテーブルの横へと目を遣れば、嶺二は私が来る前に、もう既に数本も缶ビールを開けていた事に気付く。 視線は、明るく光ったテレビに向けたまま、こちらを見る事なく、嶺二はぼんやりと言葉を漏らす。 「旅に出たいなあ」 「今、仕事忙しいんでしょ? ドームツアーも控えてるし。当分無理じゃん」 「そうだね。アイドルは大変だ」 「ドームツアーの東京公演。席取ってあるからちゃん観に来てねん」「勿論行くよ」嶺二に向けて、嶺二にしか見せない特別な笑みを添えてそう答えると、私もビールのプルタブを開けた。麦芽の香りが途端に私の周りを包んでいく。 いつも機嫌の悪い時にしか私を呼び出さない嶺二だが、何故か今日は取り分け機嫌が悪いわけではなかった。寧ろ落ち着いているように見えたし、どちらかと言えば機嫌が良い方ではないだろうか。私に対する態度だって驚く程に優しい。それでは、何の為に私なんかを呼び出したのだろう。 何処となく感じられる、普段とは違ったこの違和感だけが、しこりのように私の胸の中に残った。 「雨の音がする」 「本当だ。傘持って来るの忘れちゃった」 「明日仕事休みなんでしょ? 泊まっていきなよ、ちゃん」 「いいの? ・・・じゃあ、お言葉に甘えて」 ポツポツと小雨だった筈の雨は、それから暫く経てば、雨脚が強まっていった。おまけに強風も吹いてきたので、高級マンションとはいえ、微々たるものだったが、窓が揺れるのを僅かに感じた。 雨風が酷くなってきたそんな中、轟々と響く雨音を背に、嶺二は一人、ひっそりと小さくこう呟いた。鳴り響く轟音の中でも、何故だかその瞬間ばかりは、彼が呟いた言葉だけ聴き取れた。 「生きるのってむずかしいや」 無数の大きな雨粒たちが、大きな音を立てて窓に打ち付ける。怖かった。その、たった今抱いた“恐怖”という感情の意味が、果たして悪天候から来るものなのか、それとも、嶺二に対する気持ちなのかは、私は頑なに考えようとはしなかった。 嶺二の本心は、今も、そしてこれから先も、決して私には分からない。彼の胸の痛みも、心の闇も、勿論、誰にも分からないのだ。 レイニーピープル (2014/03/20) clap 捧げます。 |