一瞬、無風状態の凪が訪れたかと思えば、それはすぐに潮風に変わり、の肌を風がじんわりと触れる。丘から程近い場所にある神奈川の海は、今日も穏やかに波打っている。祖母から「熱中症になるから持って行きなさい」と言われ、仕方なく持って来た麦わら帽子を被ったは、今日もとある男を待つ。


 程無くして、その男が丘のふもとから歩いて来るのが見えた。は、徐に手を大きく振る。地面から目線を上げ、の姿に気付いた男は、に答えるように小さく、肩の高さ辺りまで手を上げた。
 男は丘の上まで辿り着くと、「お前さんも飽きんのう」とに言う。「それはどっちの台詞だか」と笑顔を添えても応えた。
 二人は、近くに設置してある古びた木製のベンチに座る。丘に辿り着いたばかりの男は、自身の手で、額から流れる汗を拭った。見兼ねたが「ハンカチ貸そうか」と問うたものの、「いらん」と素っ気なく男は答える。


 男の汗が漸く引いた頃、ちらりと一瞬の顔を見れば、小さく息を吸い込んで言葉を紡いだ。


「今日は何やら機嫌が良さそうやの」
「分かる? ちょっといい事あったんだー」
「ほう。それは聞いてみたい話じゃ」
「名無しさんには特別に話してあげようかな」
「ええから、はよ話してみんしゃい」
「はいはい。えーと、あのね・・・」


 はすう、と息を吸い込んでから口を開くと、昨日起こった出来事たちを振り返る。


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―水着持って来てないって、どうすんだよアホ
―ちょ、出会って二日目の相手に“アホ”はないでしょ!
―本当のことだろい。じゃあどうすんの?
―うーん。今年は海水浴、やめておこうかな。
ちゃん。
―なに? おばあちゃん。
―これあげるから。水着、買ってきなさい。
―ゆ、諭吉様が一枚・・・!? ・・・いいの?おばあちゃん。
―せっかく神奈川に来たんだし、存分に遊ぶといいよ。
―ありがとう、おばあちゃん! 大好き!
。良かったな。
―うん!


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「・・・という事が昨日あってね、今度海水浴に行く事になったの」
「へえ、良かったのう」
「うん。いいでしょ」
「ところでお前さん、そのブン太って奴と行くんか」
「そのつもりだけど。どうしたの?」
「いや、別に」
「ふうん。・・・あ。もしかして、妬いてる?」
「何でそうなるんじゃ」
「私が名無しさんの知らない男の子と海水浴に行くの、嫌なのかなあって思って」
「お前さんの考えすぎやろ」
「かもしれないね」


 天を仰げば、ははっとが笑った。今日は夏の風物詩でもある入道雲が、大きく空を泳いでいる。「あの雲、わたがしみたいだなあ。あー、わたがし食べたくなってきちゃった」不意にが呟くと、「わたがしと言えば、夏祭りやのう」隣に座っている男も天を仰ぎながらそう言った。


「ねえ。この辺りで近々夏祭りの予定ない?」
「来週末にあるぜよ」
「本当?せっかくだし、行きたいなあ」
「“ブン太くん”と行けばええじゃろ」
「あ、まだ引き摺ってる。やっぱり妬いてるんじゃん」
「誰が妬くか」


 男は、が被っている麦わら帽子を上から掴むと、が何かを言う暇をも与えず、ひょいと取り上げれば、自分の頭にすっぽりと深く被せた。


「名無しさんは寝不足ぜよー」
「ここで寝ちゃえば?きっと気持ちよく眠れるよ」
「誰かさんが膝枕してくれたらええんやけどのう」
「ひ、膝枕なんて。・・・今日だけだからね」


 「ありがとさん」男はそう言うと、徐にの太ももに頭を乗せた。


(膝枕させるとか、ましてや同世代の男にさせるとか、しかも出会って間もない人にさせるとか。私、正気じゃないよね。)


 が戸惑っている一方、男はというと、麦わら帽子を顔に被せて、気づけば寝息を立てて眠っていた。緊張していた事もあり、思わずの口からは、はあ、と大きく息が吐かれた。


「この人、本当に何考えてるか分かんない」


 もはや降参するしかなかった。気を紛らわせようと空を見上げると、ちょうど飛行機が一機、飛んでいた。長くて真っ直ぐに描かれている白いひこうき雲を眺めながら、ぼんやりではあるが思考を巡らせる。


(彼は一体何者なんだろう。この丘以外では、どんな生活を送っているんだろう。)


 聞きたい事は沢山あった。でも、何故か彼には聞いてはならない気がして、一歩も踏み出せない。どこか薄らと影はあるものの、話してみれば意外と話しやすい不思議な男。しかし、やはりこの男には人に対して薄くてかたい壁があるように見えた。いつかその壁を壊してくれる人物は現れてくれるのだろうか。そんな事を思いながらも、はつい、こんな言葉を吐いてしまった。


「ねえ、名無しさん。私、貴方と夏祭り、行きたいな」


 それはほんの僅かな出来心であり、心の中の言葉がうっかりと声に出てしまっただけであった。男が寝ているのをいい事に、その台詞は風と共に何処かへ飛んで行こうとしている時だった。
 男が顔に被せている麦わら帽子が、ほのかに揺れる。


「いいぜよ」


 風が止んだ。








(2013/10/24)
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