「ただいまー」あの丘から帰ってくると、は営業中の駄菓子屋をすり抜け、土間でサンダルを脱いで居間へと上がった。真夏に三十分も自転車を漕げば、やはり汗は嫌でもかくもので。洗面所へ向かうと、冷たい水で顔の汗を洗い流す。流し終えれば、「ふわあ、さっぱりした!」と一人、涼しげな顔をした。


 再び居間へと戻れば、客が一人と居ないからだろう。祖母が店番から帰ってきていた。休憩がてら、祖母がテーブルの上に置かれてある煎餅を食べていたので、も真似して煎餅を手に取った。バリバリと大きな音を立てながら十分に咀嚼する。そうやって祖母と二人で煎餅を食べていると、徐に祖母がに尋ねてきた。


ちゃん。丘もいいけど、海には行かないのかね」
「ああ、海か。海もいいねえ」
「せっかく神奈川に来てるんだから行っておかないと」
「そうだねえ」


(そういえば、海は遠くから見てただけで、海水浴はまだだったなあ。)


 ぼんやりと考えながら、はもう一枚、煎餅を手に取る。カレンダーを見れば、いつの間にか七月から八月のカレンダーへと移り変わっていた。夏休みが終わるまで丁度あと一か月。その間に何度海水浴に行けるだろうかと、は指を折って数えてみたが、途中で断念した。やっと思い出したのだ。今この場所、神奈川に友達といえる友達が居ない事実を。


(海水浴、一人で行くのも怖いしなあ。やっぱり海は遠目で見るだけでいいかな。)


 そんな時だった。チリン、と風鈴が鳴る。来客だ。
 祖母が「はーい」と言いながら店先へと出ていくのを、も後ろから追いかける。「まあ、常連さんだわ」そうやって嬉しそうに言う祖母の声を聞いて、ひょっこりとも祖母の後ろから顔を出す。店の入口に居たのは、赤髪が特徴的なブン太だった。


「ばあちゃーん。こんちはー」
「あら、ブンちゃん。いらっしゃい」
「今日はこれとこれ、それにこれも買うぜ」
「こんなに買うなんて久しぶりじゃない。中学生以来?」
「まあ、なんだ。ちょっと部活で褒められてよ」
「良かったじゃないの。じゃあ、今日は特別に飴もサービスしておくわね」
「やりい! ばあちゃんサンキュー!」


 純粋に子どものように喜ぶブン太を見て、思わずも嬉しい気持ちになる。彼は他人よりもお菓子が好きなのだろうと、漸く気づいた。そりゃあそうだ。祖母曰く、殆んど毎日この店に訪れているらしいのだから、おそらくそうなのだろう。


(男の子でお菓子好きって、なんだか可愛いな。)


「ところでさっき、ちゃんと話してたんだけどね」
「おう、なになに?」
「この子ね、まだこの夏、海に行ってないのよ」
「マジで。俺もう三回は行ったぜ」
「でね、ブンちゃんにお願い事があるんだけど」
と一緒に海に行ってやってくんねえかってことっしょ? いいぜ」
「本当に? さすがブンちゃん男前だわあ」
「あ、ありがとうブン太くん!」
「その代わり、礼はきっちり返せよ」
「えー、返すの?」
「当たり前じゃん。借り作ったわけだし」
「はいはい。分かりましたよー」
「俺今週末は試合だから、試合終わったら海、行くか?」
「うん、行く行く!」
「よし、決まり。ところでお前、勿論水着は持って来てるんだろうな」
「うん! ・・・うん? ・・・あれ、ちょっと待ってね」


 土間を抜け、居間もすり抜け、長く続く廊下をも抜けて階段を大きな音を立てて勢いよく駆け上がる。二階に辿り着いて実家から持ってきた荷物をガサツに漁っていく。衣服、下着などをいい加減に押し分けながら、おそらく奥底に入れたと思われる水着だが、キャリーバッグを逆さにしてみても、目的のそれは一向に見当たらなかった。


 肩を落としながら階段を下りてくる様子を土間から見て、祖母とブン太は察したようだ。漸く店に戻ってきた顔色のよろしくないに、ブン太は恐る恐る声をかける。


「その顔だと、もしかして」
「う、うん・・・」


 の表情は最早、死人の顔に近い。魂が遥か遠くへ逝ってしまいそうな、そんな顔だ。二人に聞こえるか聞こえないか分からない程の消え入りそうな声で、はこう言った。


「水着持ってくるの、忘れた・・・」








(2013/10/12)
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