少女は今日も自転車を漕ぎ続け、あの丘へと向かっている。夏独特の僅かに湿気を帯びた風が吹けば、青々とした木々がゆらゆらと揺られ、そよいでいる。その湿気がじんわりと感じられるのは、もそうだった。額からじんわりと汗を噴きながらも、漸く丘へと到着する。
 そんな中、一人の男がの目に映った。


(あ、今日は先越された。)


 目の前には昨日出会ったばかりの、銀髪の男がひとり佇んでいた。しかしその後ろ姿は、どことなく寂しそうな雰囲気を醸し出していた。自身の心をも不安定にさせる、そんな背中だった。何かあったのだろうかとはほんの少しだけ思ったが、取り分け気にせず、徐に男に声をかけた。


「こんにちは」
「ああ。お前さんか」
「何してるんです?」
「海見とるんじゃ。昨日と一緒」
「相変わらずですね」
「今日合わせて二回しか会ってないのに、知ったかぶっとんやのう」
「いいじゃないですか。知ったかぶりも時には役に立ちますよ」
「あ、そう」


 興味無さそうな素振りを見せて、男は短く返答する。そして再び視線を海に向けた。遠くを見つめるその視線の先は、まるで海よりももっと向こう側にあるような感じがしたのは、の気にし過ぎだろうか。そうやっても男に倣って海を眺めていると、「あっ」と思い出したように口を開いた。


「ところで、いい加減名前、教えてくださいよー」
「嫌じゃ」


 頑なに名前を教える事を拒むのは何故だろうかと不思議に思いながらも、は「じゃあ、これはどうです?」と男に提案する。


「これからは貴方のことを『名無しさん』って呼びます」
「何とでも呼びんしゃい」
「やった。名無しさんは今、おいくつですか?」
「十六。高二じゃ」
「へえ、それは答えてくれるの・・・って。えっ。高二って、同い年じゃないですか!」
「そうなん? お前さん、幼い顔しとるから中学生かと思ってたぜよ」
「えー。昨日は同い年のブン太くんに『高校生?』って一発で当てられたのに」
「お前さん、ブン太に会ったんか」
「え? ブン太くんを知ってるんですか」
「いや、知らん」
「どっちなんですか。まあいいや。それより、同い年だったら敬語、やめてもいいですか?」
「好きにすればええ」
「じゃあ敬語やめるね」
「早速過ぎるじゃろ」
「だって『好きすれば』って名無しさん言ったじゃん」
「まあ、そうやけど」


 完全にに振り回されている男は、はあ、と一つ大きな溜息を吐いた。そんな姿を見たは、「幸せ逃げちゃうよ?」と問う。男が「誰かさんのせいじゃ」と答えると、はくつくつと口を両手で覆い、笑いだした。「どうしたん。急に笑って」「いやね。あのね」は笑いを堪えながら、言葉を続ける。


「名無しさん。今日初めて見た時は寂しそうだったけど、大丈夫そうだね」
「はあ? 何でそんなこと言うん」
「本当だよ。後ろ姿、なんだか孤独そうだった」
「気のせいじゃろ」
「うん、気のせいみたいだね。良かった」


 未だにはひとり、笑い続けている。「いい加減笑うのやめんしゃい」と男が言っても、の笑いは止まらなかった。嬉しかったのだ。隣に居る男と、こうやって自然体のままで話せている自分が。長い間異性と話す機会が無かった為、少しだけ男性恐怖症というものを患っていたのかもしれない。しかし、初めて出会ったこの男、そしてブン太と接した事によってそれは少し和らいだように感じられる。


「ねえ、名無しさん」
「なんじゃ」
「夏の間、毎日この丘で私とお話してくれない? 下らない話でも、何でもいいから」
「・・・仕方ないのう」


 僅かに男の口元が上ったような気がした。それを見逃さなかったは、「約束だからね」と念を押す。眉を下げて、フッと小さく観念した様子を浮かべると、男ははっきりとした口調で、確かにこう言った。


「ああ、約束じゃ」


 二人の間を、するりと風が舞い上がる。








(2013/10/11)
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