ブラウンの遮光カーテンが開けられる音がした。途端に日光の温もりが肌に感じられると、俺は薄らと目を開けた。



03




「光。朝だよー」


 ごろんと寝返りを打つと、目の前にさんの顔があった。ああ、そうだ。昨日から一週間、さんとの共同生活が始まったんだった。時計を見れば朝の八時半。そろそろ朝飯も食べなければいけない時間だ。食パンの残りはまだ台所にあっただろうかと、一人考える。


 ところでうちの両親たちはというと、幸いな事に先週から約二週間のバカンスに行っていて不在だった。不幸中の幸いというか何というか。これで両親たちが居たら只でさえ事が大きいのに更に大ごとになるところだっただろう。とりあえずこの一週間は両親が居ないので、安心してさんの容態を窺える。


 とにかく腹が減った。そういえば昨晩はそれどころではなかったので晩飯を食べ損ねていた事を思い出す。


さん、朝飯でも食べますか」
「うん。お腹空いちゃった。昨日はご飯食べないまま寝ちゃってたね」
「食パンしかないかもしれんけど、それでもええなら」
「十分!」


 ニカッと笑顔でさんが返事をした。部屋のドアを開けると、俺たちは階段を下りていき、台所へと向かった。



 

「うわ。ほんまに食パンしかあらへんやん」
「卵は? ハムエッグ作りたい」
「すんません。卵もないです」
「そっかー。じゃあ食パンだけで我慢だね」
「何枚でも食べてええですから」
「うん、ありがとう!」


 トースターで数分程焼いていると、芳ばしい香りが台所から漂ってくる。本当に何も食べ物はないのかと思い、冷蔵庫を開けると、どうにか牛乳はあったので、牛乳を二つのグラスに注いで俺たちはダイニングで食パンが焼けるのを待っていた。
 そして数分後、チン、とトースターが焼き上がりの合図を鳴らしてくれたので、ダイニングから台所へと再び向かった。トースターを開ければ、きつね色のこんがりとしたいい具合に焼けたトーストがお目見えした。冷蔵庫からバターと、二人分の朝食を持ってダイニングへと足を運んだ。


さん。貧相な朝食やけどトースト出来ました」
「わあ。ありがとう! 光」


 「美味しそうだなあ」とさんは口元を綻ばせて言いながら、二人で手を合わせると『いただきます』をした。
 彼女は大きな口を開けて一口、ぱくりとトーストを口に含んだ。十分に咀嚼しながら味を確かめる。すると、さんは部屋中に聞こえるような大きさで「美味しい!」と唸った。


「それなら良かった」
「ほら、光も見てないで美味しいんだから食べな。冷めちゃうよ」
「普通のトーストやと思うねんけど」


 さんに促されて、俺も一口トーストを口に入れる。はっきり言って味は、いつも食べているメーカーの食パンなだけあり、とびきり美味しいわけではないし不味いわけでもなかった。至って普通だ。


「やっぱり普通ですよ」
「そうかなあ? あ、光と一緒に食べてるからいつもより美味しく感じたのかも」


 えへへ、と目尻を下げてさんが笑う。そないな平気な顔して言われたらアカンやん。アカンやろ。俺は恥ずかしさを隠すようにさんから顔を背けると、小さな声でこう言った。


「・・・やっぱり美味いっすわ」
「でしょ?」


 聞こえないように呟いただけだったが、さんには聞かれていたようだった。両手で頬杖をついていた彼女は、「光って本当に恥ずかしがり屋なんだから」と、笑いながら俺と肩を一度、小さくポンと押した。





「とりあえず、一週間分の食料を調達しに行きましょ」
「賛成!」


 冷蔵庫に面白いほど何も食料がない事実に困惑した俺たちは、朝食を食べ終えると、スーパーまで買い出しに行く事を決定した。スーパーは家から徒歩五分の比較的近い場所にある。開店時間は朝の十時。今から支度して行くには、ちょうどいい頃合いだ。


 食事を終え、二人で食器洗いをしている時だった。不意にさんがこう口にした。


「何だかこうしてると、私たち新婚さんみたいだね」


 洗っている皿を落としそうになった。そんな恥ずかしい台詞を平気で言ってのけるさんに、思わず動揺した。「アホな事言うてないではよ皿拭いてください」照れ隠しのつもりで口早にさんに言うと、「本心なんだけどなあ」なんて、言葉を呟かれた。いつも彼女は直球だ。恥ずかしい程に。


 二階に上がり、俺の部屋へ戻ると財布を持って出かける準備をする。さんは昨夜、着替えることなく自分の洋服を着たまますぐに眠ってしまったので、少しサイズが大きくはなってしまうが、楽なTシャツとジャージに着替えてもらった。
 そして、一番の問題である透けかかっている彼女の腕は結局、俺が持っている長袖のパーカーで隠す事にした。


「それじゃあ、行きましょか」
「うん」


 そうして玄関のドアを開ける。開けた途端、忽ち湿気を帯びた熱風が俺たちの身体に纏わり付いた。じんわりと皮膚から汗が発生していくのが分かる程だった。八月の終わりとはいえ、まだまだ残暑は厳しいようである。





 五分程歩いたところに、目的地であるスーパーへと辿り着いた。中に入ると、冷房がここぞとばかり効いており、まるで此処は天国かのように思えた。


「ひかるー。なに買う?」
「何にしましょう。さん、食べたいものとかあります?」
「そうだなあ。暑いから冷やし中華とか?」
「いいですね。ほんならハムときゅうりと卵、それから麺買いましょか」
「うん。あとは三日分くらい食料買っておいて、また三日後買いに来ない?」
「そうですね。じゃあ、とりあえず野菜コーナーから見て回りましょ」
「そうしよっか」


 店内を一周回って、およそ三日分くらいの食料をカゴに入れるとレジへ並んだ。レジ担当の店員は、五十代半ばの女性だった。「あらあら。お二人さん、こんなに買い込んで一緒に住んでるの?」とニヤニヤしながら言われた。その女性は良く言えば“人懐こい”、悪く言えば“お節介なおばはん”のようにに見えた。そう言われた俺は余計なお世話やろ、と思い一人黙り込んでいたが、さんは「そうなんですー」なんて嬉しそうに会話に乗っていた。相変わらずこの人は俺と違って誰にでも気さくで優しいねんな、と思わせられた。


 スーパーをあとにすると、三日分の食料がずっしり入っているスーパーのレジ袋を提げて俺たちは帰っていった。「私も半分持つよ」と言われたが、ここはやっぱり俺も男やねんから、と思い、「ええですわ。それよりさんはその腕気付かれんようにしといてください」と男気ぶってレジ袋は頑なにさんに持たせなかった。


 家に帰ったのは昼前。朝にトーストしか食べていなかった俺たちは流石に腹が減った。ちょうど玄関でサンダルを脱いでいる時、さんが「お腹減ったし、お昼は冷やし中華にしよう」と言ったので、俺もそれに頷いた。




 部屋着に着替える為、俺が自分の部屋で着替えて階段を下り、台所に向かえば、トントントン、と軽快にそして慣れた手つきできゅうりを細切りに切っているさんの姿が視界に映った。


、さん?」
「ああ、光。先に具材切ってたよ」


 そういえば今まで付き合ってきて、お菓子を含むさんの手料理なんて食べた事なかったと、ふと思った。そして、包丁の手捌きから彼女は料理をするのが上手いのだと理解する。意外だった。いつもおっちょこちょいなさんは、何事に対しても不器用だと思っていたので、これは新たな発見だった。俺がそんな事をぼんやりと思っているうちに、段取りよくフライパンで卵も焦がさず薄焼きにして細く切っていく。そうやって具材の準備をすれば、麺を茹でて冷やし中華は完成した。


 驚くことにさんは、調味料を加えながらタレまで自分で作ってしまった。俺のオカンでも冷やし中華のタレは市販のそれを使うのに。出来上がった冷やし中華を食べると、麺に絡んだ手作りのタレが驚くくらいに美味くて、正直感動した。中学三年にしてこんなん作れるの、さんくらいやないんかと思う程だった。


さんて、料理得意なんですね」
「得意というか、好きなだけかな」
「意外っすわ」
「不器用だと思ってた?」
「・・・まあ」
「あ、やっぱり」


 まただ。目を細めて幸せそうに笑う。この瞬間が、おそらく俗に言う“幸せ”なのだと、今更気づかされる事となった。彼女の仕草、表情、全てがこんなにも愛おしく感じられたのは、今日が初めてかもしれない。今まで俺は、さんに甘え過ぎて、彼女に対して上手く向き合っていなかったように思える。だから、これからはちゃんと   


「それにしても」
「それにしても?」


「私、本当に消えちゃうのかな」


 さんの顔から一瞬微笑みが消えたと思えば、すぐに笑顔を取り戻し、こう言った。


「ごめん、何でもない! ゆっくり考えていこう」


 すると、さんは再び箸を取って食べかけの冷やし中華を美味そうに食べ始めた。


 もしもさんが本当にあと数日で消えてしまったら。俺はこのべらぼうに美味い冷やし中華をもう、食べる事はなくなるのだろうか。視線をテーブルに落とし、食べ終わって何もない皿を何となく見遣る。どうすればさんが消えなくて済むのだろうか。解決策は、一向に見当たらない。そんな何も出来ない自分が情けなく、泣いてしまいたい程だった。




 そして先程、一瞬だけ垣間見せた悲しそうなさんの顔を、俺はこれから一生忘れる事はなかった。




タイムリミットまであと、5日








(2014/03/18) inserted by FC2 system